ヴィヴィアン・ウエストウッド(VIVIENNE WESTWOOD)の歴史
ヴィヴィアン・ウエストウッド公式サイト
ヴィヴィアン・ウエストウッド公式サイト

ヴィヴィアン・イザベル・スウェアは1941年4月8日ダービーシャ地方グロソップに誕生しました。その後彼女が17才の時、彼女とその家族はロンドンへ移住します。
■カルチャートレンドの最前線、ロンドン キングスロード430番地。
洋服のコンセプトとともに店の名前や装飾を次々と変えながら創作活動を展開。
1971年ロンドンがカルチャートレンドの最前線にいた頃、彼女は当時のパートナーであるマルコム・マクラーレンと共にデザインを始めます。ロンドン キングスロード430番地のショップには彼らのアイデアとデザインが詰まったショーケースが並びました。
彼女は新しいコンセプトの洋服を発表するたびに名前のみならずその店の装飾までをも変えていきました。1971年、キングスロード430番地は“Let It Rock(レット・イット・ロック)”という名で知られるようになります。
当時ファッショントレンドはヒッピー、イギリスのラジオではロックンロールミュージックなど耳にすることがないその時代、“レット・イット・ロック”では50年代のロックンロールのレコードと洋服を扱うショップでした。
1972年、そのショップは“Too Fast To Live, Too Young To Die(トゥーファストトゥーリブ・トゥーヤングトゥーダイ―生きるには早すぎ、死ぬには若すぎる)」とその名を変えます。そこでは、ジップやチェーンが施された洋服、T-シャツにはスローガン、そしてZoot suits(裾でくくっただぶだぶのズボンと長い上着)を扱っていました。
“SEX”は1974年の新しいショップ名であり、オフィス用のラバーウェア、レザーボンテージ、T-シャツはジップ付き、穴空き、シュチュエーショニスト達のスローガン、そしてポルノグラフィックイメージのもの、そのような洋服を扱うショップでした。
1976年パンクの時代が到来するとともに“Seditionaries(セディショナリーズ)”続いて“World's End(ワールズ エンド)"とショップ名を変えていきます。“ワールズ エンド”においてはその名を現在に至るまで、キングスロードのショップ名としています。

70年代後半、ヴィヴィアン・ウエストウッドがイギリスのアヴァンギャルドの象徴となった頃、彼女は ロンドンのオリンピアにおいて1981年秋・冬コレクションで最初のキャットウォークプレゼンテーションを発表しました。
1982年10月、ヴィヴィアン・ウエストウッドは、マリークァント以来2人目のイギリス人デザイナーとしてそのコレクション発表の場をパリへと移します。それと共に彼女はロンドンに2番目のショップ“Nostalgia Of Mud(ノスタルジア オブ マッド)”をオープンします。その後1984年後半、この店の閉店と時を同じくして、パートナー マルコムから独立していくことになります。
■ヴィヴィアンがファッションに対する方向性を変えた重要な年に、初来日。
1984年秋、ヴィヴィアン・ウエストウッドは、東京で行われた「The Best Of Five」に、ジャンフランコ・フェレ、カルバン・クライン、クロード・モンタナ、森英恵らと共に選ばれ来日、コレクションを発表します。1984年はヴィヴィアンがファッションに対する方向性を変えた重要な年でもあります。
ストリートスタイルや若者のカルチャーが、ヴィヴィアンの世界を模倣することをやめたのです。それを機に彼女は、サヴィルローテクニックの中に、17世紀のイギリスの生地に、そして18世紀のアートの中に彼女のインスピレーションの源を見つけるようになるのです。この頃に“伝統をもって未来を創る”という彼女のクリエイティビティを象徴するORBロゴが初めて使われました。
■世界の優れた6人のデザイナーの1人に選ばれ、2度の“British designer Of the year”も受賞。
1989年ヴィヴィアンは、フェアチャイルドパブリケーションズの社長であり、ファッションバイブルのウーマンズウェアーデイリーのエディターでもあったMR.John Fairchildによって彼の雑誌“chic sabages”において、世界の優れた6人のデザイナーの1人に選ばれます。
ヴィヴィアンは常に彼女のレディスコレクションにおいてメンズウェアを発表していましたが、1990年7月フローレンスで行われたPitti Uomoで初めて完全なるメンズコレクションを発表しました。
そしてこの年彼女は大変な栄誉である“British designer Of the year”に選ばれました。1991年1月には、クリスチャン・ラクロワ、アイザック・ミザリそしてフランシスコ・モスキーノと共にファッションサミットに参加するため、再び東京でコレクションを発表することを決めました。1992年、再びヴィヴィアン・ウエストウッドはその年の“British designer Of the year”に選ばれるのです。

1993年レディスウェアを デミクチュールとも呼べるファーストライン“Gold Label(ゴールド レーベル)”とプレタポルテラインである“Red Label(レッド レーベル)”とに区分けします。“MAN(マン)”は、国際的な歓呼に応える形で1996年のミラノコレクション開催中に独立したメンズウェアのラインとして発表しました。
1998年 彼女の過去のコレクションを余すことなく表現した、若年層向けまたはカジュアルに着こなせるメンズ・レディスウェアライン としての“Anglomania(アングロマニア)”を、また同年ファーストフレグランス“Boudoir”を発表しました。
1999年2月には米国にてRED LABELをコレクションとして発表、また2000年にはセカンドフレグランス“LIBERTINE”を続けて発表しました。
2001年にはデザイナーとしては初めてMoet&Chandon Fashion Tribute賞を、また2003年6月にはUK Fashion Export Award for Designを受賞しました。同年9月にはミラノ、10月にはリバプールに次々とSHOPをOPEN。
2004年4月からはロンドンのV&Aミュージアムにて自身の34年のファッションにおける軌跡を辿るVivienneWestwood回顧展を開催しました。この回顧展はロンドンのあと、キャンベラ、台北、2005年11月には東京にて、OPENINGコレクションも開催され大盛況のうちに終了し、その後もデュッセルドルフ、バンコクと世界中をツアーしています。
2005年3月にはGold Label“PROPAGANDA(プロパガンダ)”(05-06AW)にてダイアモンドコレクションHardcore Diamonds(ハードコアダイアモンド)”を発表。2006年1月にはエリザベス女王よりNew Year Honour‘DAME’の栄誉ある称号を与えられました。
そして2006年5月からはアメリカニューヨークのMetropolitan Museumで開催された‘ANGLOMANIA展’に参加し、2006年9月にはイタリアのヴィジェバノのスフォルツェスコ城にて“VivienneWestwood Shoes1973-2006”を開催。
70年代のパンクファッションの仕掛人として有名になり、以後アヴァンギャルドなデザイナーの代名詞として称されてきたヴィヴィアン・ウエストウッド。現在に至っては“オートクチュールとも呼べる高度なテクニックに裏付けられた服作り”と高く評価されています。
トレンドというものに全く惑わされることなく、永年貫かれている独自の“クリエーション(創造)”に対する情熱と姿勢は、今尚変わることはなく、むしろ更なる飛躍を続けるのです。